はじめまして!アラヤスと申します。それでは早速、私の自己紹介をさせて頂きます。
1966年生まれの私は、これから数年後に定年を迎えようとしています。これまでの人生を振り返ると、家内と二人で4人の子育てに全力で取り組んできた前半生が何よりも印象に残っています。
そして子育ての中でも、私が特にこだわったのが子どもたちの食育に関することでした。
健康的な食生活を子どもに伝えるための食育
私は、子供たちの味覚の発達と健康を考え、無農薬有機野菜や添加物の少ない食品を与えてきました。
その出発点となったのが、人気漫画『美味しんぼ』に影響を受けたことです。同時に、自分の幼少期の”おふくろの味”といった味覚の経験が、その後の人生に大きな影響を与えているという実感から、この取り組みを始めたのです。
そして本が好きだったこともあり、食品添加物や農業に関する書籍を読んだり、無農薬野菜を販売しているお店で話を聞いたりして、この分野の知識を深めていきました。その過程で、食品添加物には製造側の都合が大きいものの、大量生産と品質管理の観点から消費者にもメリットがあることを知り、また、多くの消費者は安定した品質の食品を望んでおり、企業も添加物の危険性を認識しつつ、必要最小限の使用にとどめているケースもあることがわかりました。
慣行農法(法律で認められた農薬や肥料を基準の範囲内で使用する一般的な栽培方法)は、20世紀の化学肥料開発によって、人口増加と食糧供給の拡大さらには農業の機械化や文化的生活の向上など、人類の歴史上多大なプラスの影響をもたらしました。
しかしその一方で、農作物も大きさや形の規格があり、規格に合わない農作物は市場に出しにくかったり、生産方法もマニュアルがあってその通りに作ることを推奨されていたりと、安定した品質の農作物を安定的に供給するために化学肥料や農薬を使用していることもわかり、改めて無農薬有機野菜の重要性について知りたくなりました。
その結果分かったのは、当たり前のことですが「生物は他の生物が作ったものや、他の生物そのものを栄養にして生きていて繋がっている」ということです。植物が生きるためには、取り巻く環境が整わないと生きられません。植物が生きているということは、そこに生きられる環境があるということで、その植物が環境の一部になって環境を作っているのです。
毎日食べている食を通してあらゆる生き物の役割を感じるようになってからは、地球環境を考え無農薬有機野菜を生産されている方たちの気持ちに触れられた気がして、できる限り購入を続けました。しかし、無農薬有機野菜や食品添加物の少ない食品を販売しているところは限られています。当然ですがスーパーなどより価格も割高です。
子供が小さい頃は食材の量も少なくて済みましたが、成長するにつれ食べる量が増えて経済的には大変です。子供たちが通っていた学校は給食制だったので、一番下の子が小学校に入学して給食を食べるようになったのを節目にして、無農薬有機にこだわることはやめました。しかし、添加物の少ない食材は今でも購入しています。
食事は人間にとって欠かすことのできない大事なことです。単に食事をして栄養を補給するだけではなく、食事を得るには、食物を作る人がいて、それを運ぶ人がいて、販売をする人がいて、料理を作る人がいることを子供たちに感じてほしかった。そして、それぞれの人たちがより良いものにしようと頑張っていることを感じてほしいと思っていました。
どこまで私の思いが伝わったのかわかりませんが、子供たちの味覚に無農薬有機野菜で作られたおふくろの味を残せたと思っています。そして子供たちが成長するにつれ、健康的な食生活の重要性を認識してくれていると感じました。
子育てにおける食育の経験は、食事の選択が健康に与える影響を深く理解するきっかけとなり、結果として私自身が自然環境の大切さを理解しました。
体力づくりと職業訓練で乗り切った転職とその後
学生時代は中学でバレーボール部に所属し、高校では帰宅部でした。
高校の行事では、3000mの山を登頂するという経験もあります。その時の苦労と達成感、そして山頂から見た景色は今も心に残る素晴らしい思い出です。
私はスポーツマンではありませんが、身長178cm、体重80kgで、週に二回の筋トレを続けています。筋トレは自重トレーニングをやっています。自重トレーニングは場所と時間をあまり選ばないので、今の私の生活スタイルに合っています。トレーニングを続けることのメリットは、単に健康維持だけでなく仕事での体力の向上も得られました。仕事で使う重い機械や道具の運搬が楽になり、作業全般がより容易になったと感じています。
職業は会社員で、現在の会社には22年間勤務しています。前職は本屋で、地方の本屋に高校を卒業後就職しました。当時は本が好きだったくらいで深くは考えていませんでした。
本屋の仕事は想像したのとは違っていました。今のように欲しい本をネットで取り寄せたり、電子書籍などは想像すらできなかった時代で、本の流通は手間がかかり、時間がかかるのんびりした時代でした。
本屋での仕事を覚えていくうちに少しずつ仕事が楽しくなってきたのですが、地方の本屋の置かれている現実も段々感じるようになりました。売れる本はどの本屋も欲しいのです。それがお客さんを本屋に呼んでくれて本屋の信用になるのです。
しかし、発行した部数から地方の本屋への割り当てが少なく、時には全く回ってこないことも度々あり、お客さんの期待に応えられないことが辛かったです。結局、出版不況の影響を受け働いていた本屋の経営が厳しくなっていくのを見て、転職することにしました。
本屋をやめた後は、既に家族がいたので、生活のためにいろいろなアルバイトをしました。運送業でアルバイトをしていた経験もあり、フォークリフトに乗ったこともあります。警備のアルバイトも経験しました。体力が必要なアルバイトは収入は良かったですが、長く続けられないないなと感じていました。
私は、手に技術をつけて再就職して安定した収入が欲しいと考えてました。その時、ポリテクセンターのポスターを見かけました。ポリテクセンターは厚生労働省が所管する独立行政法人が運営する職業訓練施設で、費用はテキスト代くらいしか掛からず、再就職に向けた主に技術系の訓練を実施している施設です。
ポスターに説明会の日時があったのでどんなものか参加してみることにしました。説明会で訓練コースが6種類あり、期間は3か月と6か月の2種類と説明を受けました。説明会には20代から60代まで幅広い人が参加していました。
私は当時30代半ばで、一番人数が多い年代でした。私は、6種類の訓練コースの中から電気関係のコースを選びました。電気関係は産業のあらゆる分野に広く使われているので応用が利きそうだと考えたからです。
どうせ訓練を受けるのならしっかり受けたいと考え、6か月の期間を選びました。ポリテクセンターの訓練は、月曜日から金曜日の毎日9時から15時でした。訓練期間は訓練が終わった後や休日には、アルバイトしていました。
しかし、現実は予想以上に厳しく、ポリテクセンターの訓練で技術は身に着けることができましたが、再就職は大変でした。訓練期間中も再就職のための活動ができます。ポリテクセンターにも企業から求人募集が来るので、求人募集の書類を確認して何社も面接をしました。
私より若い人たちが再就職がすんなり決まっていくのを横目にみて、企業は年齢が重要な要素なのだと感じました。当時、30代半ばの私は、関心を持ってもらえないのかと焦っていました。そんな時に、設備維持管理を行う会社から多数の募集があり、私と同世代から上の世代まで数名が同じ会社に再就職しました。それぞれが別の部署に配属されましたが今もみんな働いています。
現在はチーフとして働いています。私はポンプ場での経験を積み、泊まり勤務を担当していました。24時間勤務で、夜間の降雨時には、朝まで仮眠を取ることなく排水作業を行っていました。排水する設備の操作は設備の側で行うこともできますが、主に操作室でモニターを見ながらマウスを使って行うことが中心でした。
操作のマニュアルがあるので普段の操作は特に難しいことはありませんが、台風やゲリラ豪雨の際には、マニュアルでは対応しきれない状況になるため、その場で対応策を考えて治水業務に当たる必要がありました。
マニュアルにない状況では、事態の推移を予想するのが難しく、何度も失敗しそうになりました。実際に大事には至りませんでしたが、失敗も経験しました。その時、確実な知識が必要であることと、選択肢を複数持ち、迅速かつ臨機応変に対応する必要性を痛感しました。設備の制御の理解を深めないと、いざという時に対応できないと実感した私は、制御の勉強をして、いざという時に備えようと思いました。
設備の制御は電気で行われているので、ポリテクセンターで学んだことがとても役立ちました。その結果を事業所全体で共有しました。業務で必要な資格としては、電気工事士、電験3種、消防設備士、危険物取扱者などを習得し、専門的な知識を習得しました。また、これらの資格と経験は仕事の幅を広げ自信を持つための大切な要素となっています。
現在は日勤に移りましたが、泊まり勤務時には健康診断の数値が基準値を超えたり、一時的に体重も増えて90㎏くらいになりました。特に体調管理が大変でしたが、食事のコントロールと筋トレで何とか改善できました。
日勤の業務は泊まりの業務とは違い、現場作業が中心となります。とても体力を使うので最初は大変でしたが、筋トレで体力を向上することができ、作業が楽になりました。私にとってトレーニングは、自分自身の健康と体力を維持し自己肯定感を高めるための重要なルーティーンです。これらの経験は、私の人生観を形成する大きな要素となりました。
猫と山野草のある生活
家には2匹の猫がおり、野良猫出身です。
猫にも個性があり、なかなか懐かなかったり、甘えん坊だったりしますが、それぞれに合わせて世話をしていたら今は2匹とも仲良く健康で暮らしています。
以前飼っていた猫たちは、年齢を重ね、高齢になり病にもなりました。猫たちの世話を家族でしていましたが、その時に、猫たちが最後まで一緒に暮らすことを望んでくれて、一生懸命応えてくれたことが今の猫たちへの愛情につながっています。彼らとの日々は、思いやりと忍耐力を教えてくれ、家庭の中での癒しとなっています。
私の趣味は園芸で、特に日本のランを育てるのが好きです。ホームセンターで山野草が売られているのをみて山野草に興味を持ちました。
図書館で本を何冊か借りてきて山野草について調べているときに、日本にもランが生息していてたくさんの種類があり、とても繊細な感じがして興味がわきました。
ランは生育範囲が広くてその場所に順応して生き延びてきたので種類によって個性が強く、気難しいところがある植物で育てるのが難しく、いくつも失敗しました。ですが、育てた植物の写真を撮影するのが楽しみです。
その美しさと繊細さは、自然の驚異を改めて感じさせてくれます。また、その写真を見返すことで、日々のストレスを忘れ、心の安らぎを得ることができます。
還暦間際の新たな挑戦:ネットビジネスへの道
私は、還暦を迎える直前に、長いサラリーマン生活にピリオドを打つ前に第二の新しい人生をスタートしていこうと決意しました。
人生100年時代、健康で充実した人生を送りたい一方で、年金だけの収入では経済的に厳しい現実があります。これは物価の上昇、医療費の増加、高齢者向けの社会保障制度の不十分さなど、社会全体の問題が影響しています。これらの要因により、年金だけでは生活が困難になるという現実が、私だけでなく多くのシニアにとって待ち受けています。
社会とのつながりが減り、趣味だけでは時間を持て余すようになりました。さらに、趣味を充実させるには経済的な余裕が必要でした。そこで、私は収入を増やす方法を模索しました。今の会社で継続雇用、別の企業での嘱託雇用、資格を生かした仕事など、選択肢はいくつかありました。
しかし、現役よりも収入が下がったり、肉体的に段々とつらくなっていくことが予想できました。そこで、新たな選択肢として起業が浮かび上がりました。特に、オークションなどの物販ビジネスなら初期費用が少なく、在庫を持たない方法もありました。
しかし、ビジネスを始めるにあたっては、資金不足、メンバーの不一致、身の丈に合わない事業拡大、専門分野に詳しい人材がいない、モチベーションを維持できない、撤退ラインをしっかり引いていない、自社なら大丈夫だという思い込みなど、様々な失敗しやすい要因が存在します。これらの要因を理解し、対策を立てることで、失敗のリスクを軽減することができます。
一方、ネットビジネスなら、場所を選ばずに仕事ができ、初期費用がそれほどかからず、副業として始めやすく、収入の上限がなく、失敗のリスクが小さいといったメリットがあります。これらのメリットを考慮すると、ネットビジネスは私、ビジネスの初心者にとって挑戦しやすい選択肢と言えると確信しました。
ビジネスは、自分が持っている価値を提案し、理解してもらい、購入してもらうことで成り立ちます。これは、私が育てた花が美しく咲くのを見るのと同じような感覚です。その花が他の人々に喜びをもたらすことが、私の提供する価値です。情報を発信することは、花の種をまくようなもので、それが芽吹き、成長し、最終的には美しい花を咲かせることを期待しています。
そして、学ぶことは、新しい種類の花を育てるための新しい技術を学ぶことに似ています。これらは大変なことかもしれませんが、私の庭を豊かにするための投資と考えることができました。還暦間際の起業、特にネットビジネスへの挑戦は、新たな庭を作り始める大きな一歩となりました。
そして、今こそが種をまくチャンスだと思いました。まだ種がたくさんある時期に新しい庭を作り始めることは幸運だと感じました。健康で充実した庭を育てるために、経済的な自立を目指しました。ネットビジネスの世界へ、一緒に新しい庭を作りませんか?