下水道から見える日本の今と未来 ~高度経済成長を支えたインフラの転換期~

私が子供の頃、実家の前の道路は未舗装でした。雨が降れば泥濘み、乾けば土埃が舞い上がる。そんな風景が、今では想像もできないほど遠い過去のことのように感じます。

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不便から快適へ、そして今

アラヤス

1960年代、私たちの住む街の風景は、今とは全く異なるものでした。

毎週決まった時間に来る汲み取り車。その独特の臭いに、近所の主婦たちは洗濯物を急いで取り込みました。夏場は特に悲惨でした。蝿が群がり、消毒用の薬剤の匂いが漂う中、子供たちは外で遊ぶことさえ躊躇いました。台所からの生活排水は開放式の側溝へ。梅雨時には腐った生ゴミの匂いが立ち込め、蚊の発生源となっていました。

当時、各家庭に洗濯機はありましたが、使い方は今とは大きく異なっていました。洗濯機で洗った水は、そのまま側溝に流れ出ます。洗剤を含んだ排水が、街中の側溝をつたって小川へ、川へと流れ込んでいきました。都市部の河川は家庭からの生活排水と工場排水で著しく汚染され、「死の川」と呼ばれる場所も。1970年代初頭の多摩川では、洗剤の泡が路面まで吹き上げられ、風に乗って舞い散る光景が日常的に見られました。夏になれば悪臭が漂い、魚は姿を消し、川底は腐泥に覆われていたのです。

東京都内の河川の様子を示すBOD値(生物化学的酸素要求量)は、1970年の隅田川で平均63ppm。現在の環境基準5ppmと比べると、いかに深刻な汚染状態だったかが分かります。このような水質汚濁は、伝染病の発生源としても市民の健康を脅かしていました。

それが1970年代に入ると、まるで魔法のように街が変わっていきました。コンクリートの蓋付き側溝が整備され、地下には下水管が張り巡らされていきます。道路は舗装され、水洗トイレが各家庭に普及していきました。もう汲み取り車を待つ必要はありません。洗濯機の排水も、台所の流しも、風呂場も、トイレも、全ての生活排水は静かに、そして清潔に地下へと消えていくようになりました。

河川の水質も劇的に改善されました。1965年にはわずか8%だった下水道普及率は、2020年には79.7%にまで上昇。この数字の背後には、数え切れないほどの人々の努力と、莫大な投資がありました。かつて「死の川」と呼ばれた多摩川では、1990年代には鮎が戻り、今では都市部を流れる清流として市民の憩いの場となっています。

そして今、私たちは蛇口をひねれば水が出て、洗濯機のスイッチを押せば洗濯から脱水まで自動で行われ、その排水は瞬時に消えていく生活が「当たり前」になっています。朝シャワーを浴び、食器を洗い、洗濯機を回す。その度に使用される水は、どこかへ消えていきます。毎日何気なく使っているこのシステムの存在を、私たちはほとんど意識することがなくなっています。まるで空気のような、でもそれ以上に重要な存在として。

かつての悪臭漂う側溝や、泡立つ川の風景は、まるで別世界の出来事のように感じられます。しかし、この「当たり前」の裏には、壮大な地下のネットワークが24時間休むことなく働き続けているのです。

見えない危機の足音

アラヤス

その「当たり前」が、今、大きく揺らいでいます。

2025年1月28日未明、埼玉県八潮市で発生した痛ましい事故。深夜、下水管の劣化による突然の道路陥没で、一台の車が飲み込まれました。運転していた方は2月9日現在の今も行方不明のままです。暗闇の中、何の前触れもなく路面が抜け落ち、一瞬にして人の命が奪われかねない状況が起きたのです。

このような道路陥没は、決して珍しい事故ではありません。国土交通省の調査によると、下水道に起因する道路陥没は年間約3,000件。これは実に1日あたり8件以上のペースで発生している計算になります。2023年度、東京都内だけでも約400件の陥没事故が報告されており、その数は年々増加傾向にあります。

「明日は我が身かもしれない」

この恐怖は、決して大げさなものではありません。通勤・通学、病院への通院、保育園への送迎、日々の買い物。私たちが毎日当たり前のように行う行動が、突然の悲劇に変わる可能性を秘めているのです。どこで、いつ起きてもおかしくない。その不安は、確実に市民の心に重くのしかかっています。

目に見えない地下で、確実に進行する老朽化。全国の下水道管の総延長は約47万キロメートル、地球を12周できる距離です。そのうち、実に30%以上が設置後30年以上が経過。東京23区に限れば、50年以上経過した管きょが全体の約16%を占めています。この巨大なインフラネットワークの劣化は、まさに時限爆弾のように、私たちの足元で静かに、しかし確実に進行しているのです。

静かに進行する崩壊

アラヤス

下水道管理者たちは、この危機をいち早く認識していました。

1960年代から70年代にかけて一斉に整備された下水道網。その集中投資の「つけ」が、今、一気に回ってきているのです。

国土交通省は2015年、「下水道事業のストックマネジメント実施に関するガイドライン」を策定。従来の「事後保全型」から「予防保全型」への転換を自治体に促しています。各自治体は、老朽化が進む前に計画的な点検・補修を行う体制づくりを進めているのです。

しかし、これには大きな課題があります。下水道は24時間365日、止めることができないインフラです。点検や補修作業は、使用量が減る深夜の限られた時間でしか行えません。作業員たちは、真夜中の地下で黙々と劣化と戦っているのです。

さらに深刻なのが予算の問題です。財務省の資料によると、国の公共事業関係費は1998年度の14.9兆円をピークに減少を続け、2023年度には6.1兆円まで落ち込んでいます。下水道への配分も年々縮小。国土交通省下水道部の調査では、2021年度の下水道事業予算は全国で約2兆円と、必要額の半分にも満たない状況です。

この状況は、今後さらに厳しさを増すことが予想されます。

  1. 人口減少による税収減:
  • 国立社会保障・人口問題研究所の推計(2023年12月発表)によると
    • 2020年:1億2544万人
    • 2050年:1億192万人(予測)
  • 生産年齢人口は2020年の約7,400万人から2050年には約5,000万人へ
  1. 経済規模の縮小:
  • 内閣府「中長期の経済財政に関する試算」(2024年1月)より
    • GDP実質成長率:年平均1%未満で推移
  • 地方財政審議会の試算では
    • 地方自治体の税収:2019年度比で2040年度には約2割減少
  1. インフラ維持費用の増大:
  • 国土交通省「下水道事業の持続的な運営に関する研究会」報告(2023年)より
    • 更新必要額:約30兆円(2023年時点)
    • 年間維持管理費:約1兆円
  • 国土交通省インフラ長寿命化計画(行動計画)より
    • 2040年までに建設後50年以上経過する下水道施設が全体の約5割に到達

希望の道を探して

アラヤス

では、私たちはどうすべきでしょうか。全国の自治体では、様々な取り組みが始まっています。

1. 暮らしやすさを追求する「コンパクトシティ」という選択

「コンパクトシティ」とは、都市の中心部に住宅や商業施設、医療・福祉施設などの都市機能を集約し、効率的で持続可能な街づくりを目指す考え方です。

富山市の取り組みは、その成功例として知られています。市内電車を基軸とした公共交通の活性化と、沿線への施設集約を進めた結果、中心市街地の人口は2005年から2020年の15年間で約28%増加。インフラ維持管理費用は従来型の都市構造と比べて約2割削減されました。

高齢者が歩いて暮らせる街。若い世代が子育てしやすい環境。病院や商店が徒歩圏内にあり、公共交通機関が充実している。そんな暮らしやすい街づくりと、インフラコストの削減を同時に実現できるのです。

2024年時点で、全国の40以上の自治体がコンパクトシティ化を推進。国土交通省の試算では、インフラ維持管理費用を平均で約25%削減できる可能性があるとされています。

2. テクノロジーがもたらす革新

従来の下水道点検は、人が直接管の中に入って目視で確認するか、テレビカメラを使って撮影する方法が主流でした。1キロメートルの管路の点検に、約100万円のコストと数日の作業時間が必要でした。

しかし今、最新技術が現場を変えています:

  • AI搭載の自走式カメラロボット
  • 従来の3分の1の時間で点検が可能
  • 劣化の自動診断により見落としを防止
  • 点検コストを約40%削減
  • 非開削工法による補修
  • 道路を掘り返すことなく管の内側から補強
  • 工期を従来の5分の1に短縮
  • 交通への影響を最小限に抑制
  • 工事費用を約35%削減

東京都下水道局では、これらの新技術導入により2023年度の点検・補修効率が前年比で約1.5倍に向上しています。

3. 新たな選択肢:分散型システムの可能性

従来の下水道は、大規模な処理場で集中的に処理を行う「集約型」が主流でした。しかし、これには膨大な管路網の維持が必要で、人口減少地域では効率が著しく低下します。

そこで注目されているのが「分散型システム」です:

【集約型との比較】

  • 初期投資
  • 集約型:処理場1か所で約100億円
  • 分散型:小規模施設で1か所約5億円、必要な地域に応じて段階的整備が可能
  • 維持管理コスト(年間)
  • 集約型:約5億円(処理場)+約3億円(管路)
  • 分散型:約1億円(複数施設の合計)
  • 環境負荷
  • 集約型:ポンプによる圧送に大きなエネルギーが必要
  • 分散型:自然流下を活用し、エネルギー消費を約40%削減

浜松市では、中山間地域に分散型システムを導入。導入から5年で維持管理コストを約45%削減することに成功しています。また処理水を地域の農業用水として再利用するなど、環境面での付加価値も生み出しています。

私たちの選択

アラヤス

高度経済成長期、私たちは「作る」ことに全力を注ぎました。

そして今、その遺産をどう守り、どう変えていくのかという新たな課題に直面しています。

下水道は、私たちの目には見えません。しかし、その存在なくして現代の衛生的な生活は成り立ちません。かつて私たちが経験した不便な生活に戻ることはできないし、戻るべきでもありません。

これは単なるインフラの問題ではありません。これは私たちの社会の在り方を問う問題なのです。人口減少時代に入り、かつての右肩上がりの成長は望めません。しかし、それは必ずしも「衰退」を意味するわけではないのです。

より効率的で、環境に優しく、そして持続可能な社会システムへの転換。それが私たちの世代から次の世代への責任であり、遺産となるのではないでしょうか。

私たちは、この転換期に立っています。過去の経験を活かし、新しい知恵を絞り、そして何より、この課題に正面から向き合う勇気を持つことが必要なのです。

私たちの選択が、次の50年を決めるのです。

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